私は「可哀想、かわいそう」という言葉が好きではありません。
かわいそう、と言っている人は対象の人より「自分は恵まれている」と思うからその言葉が出るのだと感じるのです。
「あなたってかわいそう。私はそんな目に遭っていないから」という上から目線。無意識に言っている人も多いと思うけど。
人助けをする人の中にはこんな本心を持つ人も
かわいそう、というと、援助。
先日、Xでこのような投稿をみました。
ドイツになかなか平和が根付かない理由は
— はるか🇩🇪🇯🇵 (@blmfk1) June 13, 2024
その偽善性にあると思う
古くは東独、昨今は避難民
快く扉は開くが常に下に見ていると感じる
何故なら経済的に援助をしているという自負があるから。恵んでやる立場だから。
自ら呼び寄せながら、常に見下しているのだ。
軋轢が生まれて当然だろう。
そうなのよね…これ、ドイツ人と付き合えば付き合うほど、そうだなあと思うのです。
その遥か彼方の昔、まだ人間というものを私はよく理解していなかった頃(まだ理解していないけれど)
あの「サウンド・オブ・ミュージック」の原作となったトラップファミリーの話を読んだのです。かなり前の話で、その本は手元にないのですが、とても印象に残ったシーンがあったのです。
それはトラップ一家がアメリカに亡命した直後の事。慣れないアメリカでしかも金銭的に不自由をしていた時、苦しい生活をしていた時にあるドイツ人と出会います。
そのドイツ人が喜んでトラップ一家を助けます。こう書くと「困っていたトラップ一家を助けたドイツ人、素晴らしい!」となるのでしょうが、その本には、援助を申し出たドイツ人は明らかに上から目線で「私は恵まれているから」と考えているのがわかった、といった内容でした。
私の記憶違いでなければ、トラップ一家が援助してくれたドイツ人に感謝を述べた時に、そのドイツ人が「私はお金持ちだから!」と上から目線。トラップ一家はがっかりしたと書いてあったはず。
これを読んだ時、それまで何も考えていなかった、世間をあまり知らなかった私は
「ああ、本当だ!」
と、とても納得したのです。
「そうか。助けることができるということは、それだけ自分は恵まれているんだよ、とアピールしていることにもなるのか」と。
だから助けられてもいい気持ちがしない時があるのか、と。
「あなたを援助する私、勝ち組なのよ」というメッセージが伝わってくることがあるよね
「かわいそう」と言われると自分が弱者だと扱われている気がする
「かわいそう(可哀想・可哀相)」というのは、辞書(デジタル大辞泉)によると
同情の気持ちが起こるさま。ふびんに思えるさま。
では「同情」とは何か?
同情されると見下されていると感じてしまいますよね。
同じくデジタル大辞泉によると
他人の身の上になって、その感情をともにすること。特に他人の不幸や苦悩を、自分のことのように思いやっていたわること。
こう書いてあると「同情って良いこと」だと思えてしまうけれど、自分が勝手に「こうでしょ」と感じていることで、自分が主役になるのです。
だから「あなたのことを心配している私、いい人でしょ?」と言ったニュアンスを感じてしまうのかな。
だったら、本当に心から相手を助けたい時はどうすればいいのよ?という場合、
答えは「共感」。
親切の押し売りをせず、一緒に感じてあげる。それだけ。
親切の押し売り、「〜してあげる」っていう言葉って、支配的よね。
人間って、だれもが無意識に上の立場に立ちたいと思っているから、「可哀想」「助けてあげよう」とする前に自分のエゴかもしれないな、と考えたいし、
人助けをしようとする気持ちを利用する人もいるから気をつけてね!
色々な人間を見てきたから私の心は擦れているかもね…
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