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その昔、まだ東ドイツが存在していた時にライプツィヒに行った思い出

ドイツの街
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2019年11月9日で、「ベルリンの壁が崩壊してちょうど30年」です。

30年前のあの日、いつものように語学学校に出かけ、(授業は午後だった)暗くなった道を帰宅したら、下宿先のお母さんが、驚いた顔、そしてちょっと涙目で

「聞いた?ベルリンの壁が崩れたのよ!東ドイツの人も自由に西ドイツに来れるようになったのよ!!!!!」

「?え????」

共産主義国から西側諸国に逃げる人が絶えなくなったのは、その当時、毎晩のようにニュースで耳にしていましたが、まさか、まさか、ベルリンの壁が崩れる日が来ようとは!

それまでは、東ドイツの街に行くには、知り合いなどから「招待」してもらって、ビザを申請して、さらに滞在日数分の強制両替をしなくてはなりませんでした。

ベルリンへは、西ベルリンから24時間ビザを貰えば入れますが、そして、その際、東ドイツに宿泊する必要がないわけですが、ライプツィヒに行きたかった私は、東ドイツが存在するその時代、知り合いに頼んで、ビザを申請。

東ドイツに到着すると、その知り合いの家に宿泊させてもらい、滞在日数分の強制両替をしました。

・・・壁が崩れるとわかっていたら、こんなことしなくてもライプツィヒに行けるようになるまで待ったのに・・・(誰が想像した?)

統一後のライプツィヒ

その当時はいつまでドイツに滞在できるかわからなかったので、とにかくドイツにいるうちに、学校の休暇を利用して、一度は行きたい!と思ったライプツィヒに出かける事にしたのです。

秘密警察が怖いので(女性の一人旅だし)カメラは持たず。荷物も4日間くらいの旅行だったのに、普通のリュックサック一つ。中身は着替えと洗面道具くらい。書籍の類は全て西ドイツの下宿に置いて、辞書も持たず、列車で東ドイツ入り!です。

とにかく、荷物が少ない方が良いかな?と思ったのですね。

共産主義国から逃亡する人が絶えない時期でもあったので、東独を走る、しかも東独内で止まる列車に乗るのに、それはもうハラハラドキドキ!

フランクフルトから乗り換えて、ライプツィヒ行きの列車に乗車。列車の車体自体は東独のもの、西独のもの、どちらもありましたが、特に大きな差はなかった気がします。まあ、西独の車両の方が綺麗でしたが。

フランクフルトからの列車が東独との国境の駅に着くと、緊張はクライマックス!

どの駅だったか覚えていないのですが、それほど大きな街ではなかったのに、長時間停車。警察が乗り込んで来て、パスポート検査です。

「うわ・・座席の下とかも調べられたらどうしよう・・」なんて思っていましたが、思ったよりあっさり終了。(昔読んだ本に、座席の下を調べる、とか書いてあったんですよ!)

列車が出発して東独内を走り出すと、いきなり戸外の景色が暗い!

お天気が悪いのではなくて、建物がグレー。

ドイツ人は家を綺麗にするのが好き、また、それに価値をおいているのもあって、西独の家だと時期が来れば外壁の塗装をやり、いつも綺麗な白い家にしているのに、東独の家は(ペンキ不足)塗装されていない!

東ベルリン訪問の時のように、タイムマシンに乗って過去に戻ったかのようです。

国境からライプツィヒまでは、それでも何の問題もなく、無事に到着しました。

東独に入ってから乗り込んんで来る人の服装が、これまた独特でした。(ちなみに、東ドイツの多くの人の体型も独特で、統一後も「あ、この人東独から来たな」とすぐわかるほどでした。これは栄養不足。野菜不足から来たものと思われます)

そして、言葉も少々わかり辛い・・・

さて、ライプツィヒでの経験です。単なる観光客だったので、食べ物の経験ばかりですが。

駅について、お腹がすいたのでお菓子でも買おう!と思って、駅のキオスクのようなお店に行くと、商品は売り子さんの後ろにあって、直に見れない。(店員も東独では特に親切ではない)
は、いいとして、チョコレートだろうな、と思って、「あれください!」で買ったのは子供用のミルクチョコレート。少なくともそうパッケージには書いてありました。

実際に食べたら・・黒い色の砂糖菓子。としか思えないもの。(実際、カカオは不足だったそうです。東独には外貨がなかったから)まずかった!

お世話になった知り合いとカフェに行った時、コーヒーを頼んだら「ありません」と。
大都市のカフェでコーヒーがない!後で聞いた話、紅茶も手に入れるのが大変だった、と。

考えたら、コーヒーも紅茶も輸入です。国は外貨がいる!んですよね。

スーパーで売っている牛乳、とても薄くて(低脂肪とかで売っている訳ではない!これが普通の牛乳)しかもすぐに腐る!

私が滞在中、いつものように朝食はミューズリーにしてもらっていて、牛乳を1本もらったのですが、開けてから4日も経過していないのに、腐った!(まさか・・)のです。薄いのに。。あの薄さでは「フルーチェ」とか、絶対に作れなかっただろうな〜乳脂肪分が少なくて固まらないと思います。

東独滞在中は、ランチはお世話になった家庭の人にサンドイッチを作ってもらって、それを持参。
朝と夜はその家庭で食べました。何故って?レストランが不足!だったそう。

近所にあった食料品のお店にあった野菜は、人参、キャベツ、紫キャベツ、じゃがいも、それくらい。これ以上なし。(なので、田舎暮らしの方が楽だったそうです。畑で自分で育てることができるからだとか。りんごの木があればりんごがなるし。)

「知ってる?東独の人間って、猿から進化したのではないのよ!」「え??」

「だって、バナナがないんですもの!」

・・・とお世話になった家庭の人のジョーク。本当に食生活は辛かった!(西ドイツでもその当時は食事はあまり美味しくなかったのに)東独で庶民の生活を一週間以上したら気が狂ったかも・・・

私がそれでもライプツィヒに行きたかった理由はこれです!

J.S.Bach

大作曲家バッハが活躍して、しかもバッハのお墓があるのがライプツィヒ!もちろん、バッハの活躍した聖トーマス教会に行きました!

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