11月8日に流れてきたドイツ大使館のツイートです。
明日 #ベルリンの壁崩壊30周年 を迎えるにあたり、マース外務大臣の寄稿文 (抜粋)
— ドイツ大使館🇩🇪 (@GermanyinJapan) November 8, 2019
「ベルリンの壁が崩壊したとき、あなたはどこにいましたか?
1989年11月9日を欧州で経験した人ならば誰でも、この質問に答えられるでしょう。(1/3) pic.twitter.com/j95V4NubhH
すでに昨日、答えてしまいましたが、覚えています!ええ、覚えていますとも!
いつもの如く、午前中はお世話になっていた、下宿していた家の掃除など手伝って、ランチをとった後、語学学校に出かけ、これまたいつも通りに授業を受け、(その授業も特に変わりはなかった)しっかりと授業を受け(?)、学校の友人とおしゃべりしながら、ゆっくり帰路へ。夕方、19時も回った頃に下宿先に到着。
その頃の家の中というのは、結構薄暗くて(雰囲気を楽しむ人が多かったのか、蛍光灯があまり使われていなかったからか)
下宿先のリビングに入り、ちょっと暗いオレンジ色の照明の元、テレビが珍しくこの時間についているなあ・・と思いながら(その家庭では20時まではテレビは見ていなかった)
「グーテン・アーベント!」(こんばんは!)とその家のお母さんに帰宅の挨拶をすると
「shirousagiさん、ニュースよ!ニュース!ベルリンの壁が壊れたのよ!」
涙目で私にそう語ってくれたのですが、すぐにピンと来ず。(だって、誰が想像した?)
「??」
「東ドイツの人も自由に西ドイツに来れるのよ!」
「??(あれ、私、ドイツ語ちゃんと理解しているのかな? 東独の人が自由に西側に来れるって?そう言った??)」
自分のドイツ語力に自信が全く持てなくなってしまい、なんのリアクションも起こせず。
(だって、本当に自分が聞いた文章が信じられなかったから。ドイツ語を間違って理解したのかと思った。)
大喜びの下宿先のお母さんの前でただひたすらぼ〜〜としていたshirousagiです。お母さん、もしかして、「あれ?ドイツ人じゃないからあまり嬉しくないのかな?」と思ったかも。
ベルリンの壁が崩壊した経緯などはググっていただく方が正確な情報だと思うので、ここでは省きます。なにしろ、その当時の私のニュースソースはドイツ語で聞いた情報のみ、今のようにネットもないのでうろ覚えだし、ドイツ語間違って理解したかもしれません。
ただ、滞在先の西ドイツで皆が大喜びしたのは覚えています。
が・・・それも長く続かず。
その後、「西側に来れば、良い暮らしが出来るんだ」と思った東ドイツ人が大量に西側に移住。しかし、彼らは「努力しないと収入はない、働かないと良い暮らしはできない」という考えがなく、怠けているので、西ドイツ人が激怒。
Ossi(オッシー)と軽蔑し始めました。西ドイツ人の事はWessi(ヴェッシー)です。(東はドイツ語でost、西はwestです)
あれほど喜んだ下宿先のお母さんも、やがて東ドイツ人を嫌い始めました。実際、見ていると嫌うのも無理はないな、だったのです。
統一に向けての西ドイツの経済的負担もばかにならなかったし。
東ドイツはというと、それまでほとんど外国人がいなかったところに、自由に外国人も行き来出来るようになり、外国人を知らない東ドイツ人、知らないが故に外国人を見て不安になったようです。
また、「壁が崩れたのだから、なんでも手に入る生活が出来るんだ!」と、その影で苦労をしなくてはならない、という事が理解できず、それまでテレビで見ていた(壁が存在していても西独のテレビ放送は見れた)「憧れ」の西ドイツの生活と同じ生活がすぐに出来ず、(当たり前だけど、それがわからない)
「おかしい!こんなはずではなかった!」と市民が不安に。
しかも、それまでなかった、「失業」があります。
本当に、壁が崩れてから直後は、西ドイツの人も東ドイツの人も皆、喜んでいたのですが、それから数ヶ月してからのドイツは過ごしにくかったのを覚えています。
西は東の人にうんざり、東は生活が変わったのについていけず不安いっぱい・・・
あの時は私も「ドイツなんて大嫌いだ!」と叫んでいたなあ・・・よくドイツで生き延びたものだ、それも田舎で、と自分を褒めてやりたいなあ。
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